ひとりの日

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- # 智の場合

- # つばめの場合


# 智の場合

 その日、智は久しぶりに職場へと顔を出した。だが、彼自身はそこで仕事をしない。彼の主な仕事は、その場所での彼以外の人間が仕事をする為の、言わば環境を作ることであった。
 一般的にはその環境を維持するために、毎日でも修正や改良が必要になる。だが彼は作業を家で行う為、仕事場に直接出向くのは二週に一度ほど。そして今日はその保守点検の日で、特に何も問題が無ければ、昼頃には帰る事ができるだろう、と彼は考えていた。
 智の職場は、彼の自宅から電車とバスを利用して一時間ほどかかる場所にある。仕事先の人間関係を自宅にまで持ち込みたくはない故の距離だった。もし飲みに誘われても、自宅まで遠いという理由で断れるし、何より突然の訪問を心配する必要が無い。
 電車を降り、市営のバスへ乗る。
 智はこのバスからの景色が好きだった。ジッと人を見つめていても、あまり目が合う事が無い。
 バス停に群がる出勤や登校を急ぐ人々が、どういう風にバスの乗口に近づくのかを観察したり、また乗り馴れていない乗客が両替のタイミングを見誤ったりする風景に、彼は言いようの無い安心感を得ていた。
 バスから降り、熱い歩道から逃げるように、彼は斜め向かいのビルへ入る。ガラス張りの玄関は陽の光を通してはいるが、外とはまるで空気の温度が違う。服の中の熱気を逃がすように襟をぱたつかせ、エレベータに乗り込む。近代的な趣の、打ちはなしたコンクリートも新しいオフィスビル。その六階が彼の職場だった。
 挨拶も少なくあてがわれたデスクへと向かい、智はモニタへと向かう。べっ甲の模様の付いた眼鏡をかけ、それから二時間ほど、エラーとその時の作業記録をぼんやりと眺めていた。
 幸い、現状ではそう深刻なエラーや不具合はなさそうだった。
「新谷さん」
 彼の横から、同僚の女性が声をかけた。身なりの派手な女性で、ゆるいウェーブのかかった髪からは甘い匂いがしている。細い、薄紫色のフレームの眼鏡をかけていて、そういえば、今日はこの色の眼鏡の人間が何度か僕に話しかけてきたな、と智は思った。
 視線だけを一度その女性へ向け、智は面倒そうに
「なに?」
 とだけ答えた。視線はモニターに戻る。
「今日、夜ってお時間ありますか?」
 にこにこと笑う女性は、モニタを眺める智の顔を覗き込むようにして言った。
 智は彫りが深く、整った顔立ちをしている。彼自身も自分の容貌が恵まれた部類に入る事を自覚していた。そして彼にとってこうして女性に声をかけられる事はそう珍しい事ではなく、それ自体を彼はとても面倒に感じていた。
「お時間があったら、なんなの?」
「そうですね……あ、じゃあお食事でもいかがですか?」
 さも今思いついたかのように、女性は言う。そのわざとらしさが、逆に彼には新鮮だった。彼女の胸元のネームプレートには、吉野みどり、と彼女の名前らしい文字が浮かんでいる。
「吉野さん」
「はい、なんですか?」
「お時間、あるよ」
「えっ、本当ですか?」
 また、みどりはわざとらしく、胸元に手を引いて言う。智はそれを見ながら、優しく口許だけを笑わせた。
「じゃあ、じゃあ、お店はどこにしますかぁ?」
「任せる。君が好きなところに行くと良い」
「わかりました! じゃあ、私定時に上がりますから、その時に!」
 言って、みどりはひらひらと手を振る。
 ──なるほど、と智は思った。これは単純な好意からの誘いではないということに彼は気づいていたし、もし彼が行きたい店を指定したところで、彼女はのらりくらりと、どうにかして自分の行きたい店に行くのだろう。
 恐らくそのルートはいくつか既に用意されているはずだ、と彼は思った。
 だが、それを承知し抜いていながら、智はその誘いに乗ったのである。
「たまにはいいか……」
 ふたたびモニターに目線を戻し、彼は小さな声で呟く。マウスを握る人差し指と中指が、スイッチを押さない程度の強さで上下に揺れている。
 とんとん、とんとん、とマウスのスイッチを叩くその指に、彼は目線を落とした。
「…………」
 彼の脳裏に、白いワンピースを着た、長い髪の女が浮かぶ。冷たい月を右目に飼った、ズレて軋んだ女の姿。
 ぼんやりとした輪郭の中に、しっかりとした芯がある──例えるなら、真綿を巻いた鉄棒のような……暖かいが、冷たい。そんな女性の姿が彼の頭に浮かぶ。
 彼は慣れた手つきで携帯電話を開くと、家に電話をかけた。
 数回のコールの後、電話口につばめが出る。
「だれ?」
「つばめ、僕だよ。智だけど……」
「あら、どうしたの?」
「今日、ちょっと用事があるから、家には帰れないかも」
「かも?」
 曖昧な部分をつばめは尋ねた。
「外に泊まるかもしれない」
「決まったら教えて」
「いや、悪かった。今日は外に泊まるよ」
「そう……明日には帰ってくるんでしょう?」
「うん、明日の昼頃には」
「じゃあいいわ、ご飯はどうしたらいいかしら」
「電話の下に、デリバリー用のファイルがあるから、そこから好きなものを頼むと良い。お金は、渡した分はまだ余ってる?」
 そう彼が言うと、電話口からガサガサという音が聞こえてくる。
「この青いファイルかしら?」
「そうそう。それから好きなものを──」
「へぇ、すごいわ。温かいまま来るの?」
「うん。なんでも、あったかいものはあったかいまま、冷たいものは冷たいまま持ってきてくれるよ」
「初めて頼むわ、ありがとう智。何でも好きなものを頼んで良いのね?」
 ページをめくる音と一緒に、つばめの楽しそうな声がする。ファイルを膝の上に乗せて、はしゃいでいるのが目に浮かぶようだった。
 思わず智は少し笑い、
「ああ、好きにすると良い」
「独りで食べるのは少し寂しいけれど、いいわ。じゃあ、また明日ね」
「うん、じゃあまた明日」
「ええ、それじゃ」
 そこで電話が切れた。通話終了を表示するディスプレィを名残惜しそうに見ながら、智はゆっくりと電話を閉じる。
「さて」
 そう言って、彼はふぅ、と溜め息をつく。
 モニタの中の文字の羅列が意味の無い模様に見え始めて、彼は眼鏡を取る。両の目頭をグゥッと指で押して、いつのまにかそこに置いてあったコーヒーを飲んだ。
「……マズいな」
 顔をしかめ、コーヒーカップを睨む。黒い水面には、天井の蛍光灯がゆらゆらと光っていた。



 その晩、彼はみどりと一緒に食事をし、彼女に誘われるがままホテルの一室へと入った。
 一連の行為が終わり、眠っているみどりを、智は煙草を吸いながら見ていた。少し汗ばんだシーツの感触が嫌で、彼はベッドから起き上がると、煙草を口にくわえたまま、窓際へと向かう。
 シティホテルの窓から見える夜景。最上階とは言わないまでも、その景色は素晴らしいものであるはずであった。だが、眼鏡を外した彼の目には滲んだ光のシミのように見えて、写真などで見る綺麗な夜景とは違っていた。
「……」
 こんなとき、つばめならどう思うだろう。写真に騙されたと言うのか、それとも目に騙された、とでも言うのだろうか。
 そのとき、彼女は自分の目を外してしまうんじゃないだろうか。あの、月の入った目を……。
 そんなことを考えている自分が可笑しくて、彼は煙をぽっ、と吐きながら笑った。
 高い場所から見る景色の、なんと素晴らしい事か。
 全てが矮小に見えて、まるで自分が世界の主になったようだ。綺麗だと思っている景色の中に、自分も含まれている事を知らなければ、それはとても美しいものに見えるだろう。
 だが、自分がその美しい世界に参画したとして、果たしてその美しいものが美しいもの足り得るかどうか。それは自意識に左右されるが、多くの場合それは美しいものとして感じられないだろう。

 綺麗なものには、人間の手が加わった形跡が、残ってはならない──。

 智の「美しいもの」に対する意識の根底には、その一つの考えが根付いていた。
 彼の思う美しさは、この他にも色々な、彼自身によって決められたルールに縛られている。しかしそのルールを厳重に、確固たる物として構築して行けば行くほど、彼の中でその事象に対する美しさや価値は大きくなっていった。
 そしてその基準に従って、彼は人の首を絞める。
 だが彼の殺人衝動のはじまりは、醜く、猥雑で、汚らしいものを、自分の前から消し去る為であった。

 彼は薄くぼやけた眼下の光を、煙草の煙で隠しながら、昔の事を思い出した。

 あれはいつだったか。
 大学に行っていた時だっただろうか。

 目を閉じ、瞼の裏を見続けていると、ふと、視界が白む。


 ──雲はない。
 日差しは強かった。

 僅かに風が吹いている。
 だが、その風も生温い。

 体には少し汗をかいていた。

 息を短く吐いて、額を拭う。

 手の平が熱い。

 白い。
 日差しが強くて、めまいがする。

 眼下には、女が倒れている。

 その女は、ジーンズと白いブラウスを着ていた。
 ブラウスから伸びている手は、地面を引っ掻いたようなカタチで固まっている。

 そして首は赤い、指の跡があった。
 鎖骨の上から、顎の下まで。
 それが、彼には丁度首の中心に蝶がいるように見えた。
 目許には茶色の髪がかかり、その表情は伺い知れないが、口許はキッ、と一文字に結ばれている。

 彼はその死体が、とても綺麗だと思った。
 喉元の蝶も、地面を掻いた指先も、顔にかかった乱れた髪も、少し皺の寄ったブラウスも、綺麗だと思えた。だが何よりも、この場で誰にも知られず殺されたこの人間が、僕しか死んだと知らないこの事実が、胸の奥を掻きむしりたくなるほど、背中にゾクゾクとした奇妙な寒気が襲うほどに、たまらなく官能的で、歪で、淫猥で、下品で、高潔で、孤独で現実離れしていて……今まで見た何よりも最高に美しいものに思えたのだった。

 彼は、その動かなくなった女に、恭しく馬乗りになった。首を、もう一度触る。

 まだ、それは人の温かさを残していた。
 赤くなった部分をいとおしそうに触り、やがて掌でそこを包み込む。
 そしてもう一度、顎の下をすりつぶすように力を込めた。気管に少し空気が残っていたのか、こふ、と小さな音がした。



 腹の中心がゾクゾクと波打つような、強烈な感覚に、彼は我に返った。
 眼下には、変わらない夜景がぼやけている。
 煙草は既に灰皿の上で短くなっており、フィルタの焦げる少し嫌な匂いがしていた。
 ベッドへ戻り、寝ているみどりの髪を、彼はそっと梳く。
 首元の髪をゆっくりとどかし、その細い首に触れた。

 思い出した衝動に、身を任せてみようか──。

 彼はそう思う。
 だがふと、みどりの首を包み込んだ手を、彼はそっと放した。
 ──今日はさっき、首を絞めたばかりだった。


 心地よいシーツに包まり、天井を見る。
 そのまま目を閉じ、瞼の裏をジッと見続けると、やがて彼の意識は途切れた。

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# つばめの場合

 その日は朝早くから智が居なかった。
 つばめは眠い目を擦りながら、ベッドの中をゆっくりと転がる。
 視界には白い天井。そこからゆっくり右側に転がる。
 正面にアルミサッシの窓。こから見える空は、ガラスに騙されてなければ、青いはず。長い髪が額に張り付いて、鬱陶しかった。
 いっそ切ってしまおうか。彼女はそう思う。
 白いシーツの上に散らばった自分の髪をつまんで、さらさらと上から落とす。小さい頃に、ペンキを塗るための大きなハケを触って遊んでいた事を思い出した。
 小さな頃は、目に映る物を疑ったりはしなかった。当たり前のように現実を享受していたし、目に映る物が全て新しくて綺麗な物だった。
 疑い始めたのは、いつだったろう。半分白く濁った視界を、彼女はもう一度閉じた。
 昔の出来事を少しずつ自分の中からすくいあげていく。イタリアに行ったとき食べたチーズは美味しかったな。小さな子犬を伯父さまから貰った時は、嬉しかった。でも料理とかお掃除とか、そういう類のものは昔からてんでダメだった。その途中で別の事が気になってしまう。

 例えば、トウモロコシの粒の数とか。
 例えば、花瓶に描いてある花の種類とか。
 例えば、今私の部屋にある本のページ数は合わせて何平方センチメートルなのか、とか。
 でも、お父さんもお母さんも、それを怒ったりしなかった。逆に褒めてくれた。いろんな事が気になるのね、って。つばめは賢い子だね、って。
 でもそれを聞いて、私はいつも悔しい思いをしていた。馬鹿にされている様な気がしたのだ。
 そしてある時から、私はそういう事を口に出す事を辞めて、ノートに書く事にした。
 でもノートにいちいち書いているのでは間に合わなくて、お父さんから古いワープロを譲ってもらった。指が十本あるのだから、それを全部使えば早いと思ったからだ。
 でも、やっぱりそれでも間に合わなくて、私は頭の中にノートを作って書いて行く事にした。なぜ最初からこうしなかったのか、と思うほど、それは素晴らしいアイデアで、ノートより、ワープロより、抜群に早く綺麗に気づいた事を並べてソート出来た。好きな時に呼び出して、好きな時にそれについて考えられる。
 私の興味はそれからお父さんが専門にしているエンジン工学やコンピュータに移って行った。インターネットも流行るずいぶん前から始めていたし、指示した事を忠実にトレスしてくれるコンピュータがとても可愛く見えた。
 時々私がミスをして上手く動いてくれない時もあったけれど、そういうことを正直に言ってくれるこの子はとてもいい子なのだと思った。
 でも、やがて何もかも出力するのが馬鹿らしくなってきて、私は出力する事を辞めた。でもそれを内で飼い殺すことができるほど私は強くなくて、お父さんの友達の椿さんに時々気づいた事のトップスリーを選んで、話すようになった。
 椿さんはすごく頭が良かった。私の気づいた事やアイデアにすぐにレスポンスを返してくれるし、それを応用して次合う時までに新しい事を考えてきてくれる。時には私の考えた飛行機やエンジンの模型を実際に作って、持ってきてくれる事もあった。
 そのうち、私の考えたアイデアがエンジン工学の面ですごいことだったみたいで、丁度その仕事をしていた椿さんが私のアイデアを使って商品を作ったみたいで、私とお父さんとお母さんは一生かかっても使い切れないくらいのお金を貰った。
 お父さんとお母さんは私にすごく感謝していたけど、案の定私はそれが悔しかった。
 そしてそれから、椿さんは家に来なくなった。

 思えばその時からだっただろうか。何もかも面白くなくなったのは。新しい事を思いついても、言う人が居ない。お父さんやお母さんは話にならなかった。僕たち私たちにはわからないな、って言ってばかりで、それを理解しようと努力もしない。
 じゃあ椿さんを呼んで、と言っても、椿さんとは連絡が取れない、の一点張りだった。最初の頃は何度か目の前で電話をしてくれたけれど、途中からそんな素振りも見せなくなった。電話するフリをして、やっぱり連絡がつかないよ、って言った事もあった。電話のログなんて、調べればすぐにわかるのに。

 自分で連絡をした事もあった。私から、というと椿さんはすぐに電話に出てくれたけれど、忙しいから、とすぐに切られてしまうことが多くて、私はいつからか電話をする事を辞めた。

 後から気づいた事だが、お父さんは椿さんに私の話したことを、何かの席で話したのだろう。それが椿さんはお金になると思ったのかもしれない。それで私の話を聞いてくれていたんじゃないか──そう思った。

 考えてみれば至極簡単なことだった。

 椿さんは私をお金でしか見ていなかったのだ。

 私が一人で盛り上がって、楽しいと思っていただけなのだ。あの時、楽しそうに笑って話している自分を蹴飛ばしてやりたい。
 そしてこう言ってやりたい。水音が綺麗だからといって、その川が美しいとは限らないのだと。そこはどぶ川かもしれないし、ゴミがたくさん浮いているかもしれない。そして見た目が綺麗だったとしても、危ない魚や生き物がたくさんいるかもしれない。
 そしてそれを確かめる方法を、教えてやりたい。

 石を一つ投げ込んでやれば良いのだ。一つで判らなければ、二つ、三つ。判るまで幾つでも投げて、本当に綺麗かどうか確かめろ、と言ってやりたい──。



 溜め息を一つついて、彼女は目を開いた。ベッドに接している自分の右目から、涙が一粒流れ落ちる。昔の事を思い出すときは、いつもこうだ。心の中がくしゃくしゃになって、心の中の綺麗な部分がみんな死んでしまって、どうしようもなく悲しくなる。
 思い出してみれば子供の駄々に近いものがあるが、彼女にとってその思い出はとても悲しく、切ない物だった。
 そしてその思い出を反芻して、自分の中で落ち着かせようとすると、決まってそれは零れ落ちるのだ。決まって、白い右目から。
 くしゃくしゃになったシーツを引き寄せて、自分に縫い付けるように胸に抱きかかえる。そこに顔を埋めて、彼女は声を殺した。肩をしゃくるように震えさせ、彼女の黒い髪はその度にシーツの隙間で揺れる。細い手足は窓からの日差しを恐れるように、体ごときゅっと縮まった。

 どれくらいそうしていただろう。シーツから顔をのぞかせて、彼女は窓を見た。
 相変わらず、空は青い。ぐす、と鼻を鳴らして、少し赤くなった両目をしばたいた。
 窓から差す光は、最初に見た頃よりすこし短くなっている。寝ている場所が少し暑く感じ、彼女はその姿勢のまま左側へゴロンと転がった。

 正面には、短い廊下に続くドアが見える。視界の少し上に、ローテーブルに乗ったメモと、少し前に智に買ってもらった黄色の携帯電話が見えた。それを少し見つめた後、彼女は這うようにしてそれに近づく。途中肘で自分の髪を踏んづけてしまい、鬱陶しそうにそれを背中に払った。

「仕事に行ってくる。リビングに朝ご飯を置いてるから食べて」

 メモにはそう書いてあった。携帯電話を開くと、時刻は既に十四時を回っている。小さなあくびをして、彼女はムックリと起き上がった。
 意識はまだ眠っているようにぼんやりとしていて、泣きはらした目は少し熱を持っている。半分白んだ視界は、あくびの涙でにじんでいた。
 その視界を手首で拭い、つばめはご飯を食べようと思った。
 ゆっくりとベッドの上に立ち上がり、柔らかい地面にゆらゆらとその身を揺らしながら、はらはらとその髪を揺らして、よろけるように地面に降りる。
 ふう、とわざとらしく声を上げて、つばめは自分の携帯と、その下のメモを取り上げた。メモをジッと見つめながら、寝室の扉を開け、短いフローリングの床を歩く。
「ひとつめ」
 白くすべすべとした壁紙を指の先で触りながら、リビングへの扉を開いた。
「ふたつめ」
 扉の数を彼女は数えた。リビングは彼女の入った扉から見て、正面に低いテーブルとそれを囲むようにしてソファが二つ。それを挟んだ正面と左側の壁面には大きな窓がある。そこから注ぐ陽の光を白く薄いカーテンが柔らかく加工していて、何とも素敵なシエスタだと彼女は思った。
「私一人なのは初めて。だからかしら」
 つばめは自分に言い聞かせるように言う。
 窓を開いたら、きっとカーテンが揺れて、もっと素敵になるかもしれないわ──そう思って、彼女は正面にあるカーテンをめくって、ガラス戸を引いた。
 熱でサッシのゴムかなにかが膨張しているのか、少し力を込めないと、そのガラス戸は開かなかった。
 抵抗を抜けると、それから先はスムーズにガラス戸はスライドして、彼女の想像通りの柔らかい風がリビングに流れ込んだ。
 しかしその風は一瞬で消えてしまって、ふむ、と彼女は不満そうに鼻を鳴らす。それから同じように左手側の窓を開くと、ふんわりとカーテンが揺れ始めた。彼女の長い髪も、はらはらと揺れる。
「よし」
 納得したように彼女は笑い、肩にかかった髪を背中へ払った。
 リビングの低いテーブルには、ラップのかかった小さなオムレツとメモが置いてある。
「ふたつめ」
 メモを取り上げて彼女は言い、
「冷蔵庫に、サラダが、あるよ」
 とメモの内容を読み上げた。
 オムレツの皿を取り上げ、リビングの入り口の左側にあるキッチンへと彼女は向かう。つばめが来るまでは一人暮らしだったはずの智の家。そこにある冷蔵庫はファミリーサイズの大きなものだった。両開きの冷蔵庫を開き、彼女は同じくラップのかかった小さなサラダを取り出して、キッチンにそれを奥と、電子レンジにオムレツを入れて、スイッチを入れた。
 ブー……ン、と低い振動音とともに、オムレツがくるくると廻り出す。オレンジの光の中のオムレツが廻っているのを、つばめはジッと見ていた。
「あ……」
 コーヒーが欲しいな、と彼女は思う。振り返ってコーヒーメーカーのポットを取り上げると、中には丁度カップ一杯くらいのコーヒーが残っていた。
 戸棚から白いコーヒーカップを取り出して、それを注ぐ。すっかり冷たくなったコーヒーを飲もうかと考えたが、少しは温かい方がいいかな、と彼女は思う。
 丁度オムレツを温め終えたことを知らせる電子音がしたので、彼女は電子レンジの中身をコーヒーカップに入れ替えた。もう一度スイッチを押す。
 ラップが張り付いたオムレツは彼女には熱すぎて、少し冷めるまで待とうと思った。
 智の作る料理はおいしい。だけど、いつも熱すぎるのよね、と、彼女は昨日の夕飯を思い出す。
 昨日の夕飯は二十センチくらいの小さなピザだった。彼女も生地を延ばして手伝ったりはしたが、上手く丸い形に延ばす事が出来ず、結局横で彼が作るのを見ていた。
 ただその上にソースを塗ったり、具を乗せたり、ということは簡単で、彼女は自分の好きなオリーブをたくさん乗せて、焼き上がったピザにはレモンをかけて食べた。
 思い出しながら、触れるほどに温度が下がったオムレツのラップを取り、温め終わったコーヒーカップ、それからフォークを持って、カーテンがふわふわと揺れている素敵なリビングへと向かう。
 部屋の温度は、暑くも寒くもない。ローテーブルに皿とコーヒーカップを置いて、忘れていたサラダを取りに戻った。

 遅めの朝食──もとい昼食は、とても満ち足りていた。
 昔映画で見たような、素敵な昼下がりの景色。ここに智がいて、自分の話を聞いてくれていたら、もっと楽しいだろう、とつばめは思う。
 自分の話を嫌がらずに、きちんと考えた返事を返してくれる智が、彼女にとってはとても大切な存在だった。
 恋愛感情とは、少し違う。依存かしら。それとも、昔失ってしまった時間が取り戻せる事が嬉しいのかしら。
 自分がともに抱いている感情を、すこしずつ紐解いて行く。だが、彼女の辞書の中にはそれを上手く表現出来る単語が無く、温め直したコーヒーを飲み干した辺りで、彼女はその事に対して考える事を辞めた。
 皿やフォークをシンクに置いて、智から習った方法通りにそれらを洗う。食器カゴにそれらを伏せて、これから何をしようか、と考えた。

 今日は素敵な日になりそう。そんな気がする。

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