ことのはじまり

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彼のストーリーはいつも中途半端だ。
 繋がるはずのない糸を必死にたぐろうとして、その糸を切ってしまう。既に未来のない話を、殊更に短くしているのだ。
 しかしながら、その中途半端なストーリーは、彼に大きな安心感を植え付けていた。物語が終わらないということは、その物語の時間が止まるということ。最も美しく、最高な状態でその物語を保存することができる――そんな歪で、自分勝手な認識で、彼はわざと糸を力任せに引っ張り、終わらないキレイな瞬間を眺めていた。そしてそれを精神安定の方法として、彼は一応の心の平衡を保っていた。
 逆に言えば、その方法に頼らなければならないほど、彼の周囲には彼の精神を安定せしめる事象が少ない事を意味しており、もはや彼にとってその手段こそが自我を確立するための唯一無二の方法となっていた。
 そして今日も彼はザワついた自身の心を癒やすべく、とある物語を、終わりを待たずに、彼の言う美しく、最高の状態でその時を止めるべく動き始めた。

 

 その晩は妙に月が大きく見えた。繁華街の雑踏が何度となく彼の肩をかすめ、その度に彼は心の中で舌打ちをする。わざわざ体を傾けすれ違う人間を避けるたびに、その人間達がどうしようもないクズに感じられる。今すれ違った女はアバズレだ。このケータイメールをしながら歩いている男はバカ。あの三人で固まって歩いてる奴は、数揃わなきゃ何も出来ない。そしてその中から、終わらせたいストーリーを物色する。彼が留めておきたいと、そう感じることのできる美しさのあるストーリーを、この腐った水で満たされた淀みから救い出すのだ。
 何、なにも難しい事はない。そのストーリーを見つけさえすれば、後は簡単だ。頭頂から約三十センチほど下の部分にあるくびれを、黒い革手袋をした手でしっかりと握りさえすればいい。すこしの抵抗の後に、そのストーリーは文字通り彼の両手の中にすっぽりと収まる。
 あとはその感触を忘れないうちに自宅へと戻り、その感触と顛末を手帳に残す。
 そうすれば、彼は救われた。

 

 

 

 同じルートを何度も通る事は避け、なるべく右、左、とバランスよく路地を徘徊する。やがて繁華街の端までたどり着くと、一旦コンビニエンスストアに入り一息入れる。そしてまた繁華街へと戻り、右、左と曲がりながら物色を続けた。
 たっぷり一時間ほどは歩いただろうか。両手を上着のポケットに突っ込み、街行く人々を心の中で罵倒しながら、彼は歩く。汚れたアスファルトの地面は彼の革靴を油で汚し、周辺の店から漂う、妙にすえた食べ物の匂いが鼻腔を突いた。
 雑踏の喧噪と、道路を走る車の音に混じり、ちょろちょろと水の落ちる音が聞こえる。彼はその方向へと歩みを進め、やがてそこにドブともとれる小さな川があることに気づいた。それを跨ぐ形で小さな橋がかかっている。その橋にはご大層に小さな橋名板が取り付けられており、「道満橋」という文字が描かれていた。
 そして道満橋の上には、この場所に似つかわしくない人間がいた。
 ぬめる地面と、腐った水、そして鼻につく汚れた匂いの中に、真っ白いワンピースを着た、裸足の、髪の長い女が立っている。女はじっと宙に浮かぶ大きな月を見つめていて、その横顔は剃刀のように危なげな鋭さを持っていた。切れ長の目がするりと動き、彼を一瞥する。ただ動く物が視界に入ったことに気を引かれただけなのか、興味なさげにその目は再び月を見つめた。
 (……これだ)
 今日の標的はこれだ、と彼は思う。このストーリーは美しい……今まで終わらせてきたストーリーが霞んで見えるほどに、それは彼の中に堪え難い衝動を呼び起こした。
「なあ……」
「なに?」
 女は、月を見たまま、素っ気なく言う。話しかけられた事に気をやる素振りも見せず、冷たく言い放った。
 智は近づきながら、彼女の足を見る。そう長く裸足で歩いた訳ではないようで、その足は月と街灯に照らされ、白く光っていた。
「裸足だけど、どうしたんだ?」
「靴を脱いだの」
「……どうして?」
「靴を履きたくなかったから」
「……どうして?」
「私、さっき突然靴の事が嫌いになったの。だから履きたくなくなったの」
「……どうして?」
「私、靴に騙されてたの。私は地面を歩いてると思ってたのに、私の足は靴の中にあるんだもの。それは靴の上を歩いているのと一緒だわ」彼女は視線を動かさずに、二度瞬きをした。「だから、多分、私は靴が嫌いになったんだわ」
「面白い考えだね」
「何が面白いの?」
「そういう考え方さ」
「だから、どう面白いの?」
「僕とは違う」
「あなたとどう違うの?」
「僕はきっと、キミの言う靴に騙されている、ってことに気づいていない。いや、騙されてるなんて思いもしなかった。その気づきが、面白いなって」
「そう、私はちっとも面白くないわ。不愉快よ」
 静かな口調で彼女はそう言うと、ゆっくりと彼の方を向いた。
 彼女の右目は真っ白く濁っている。
 白内障だろうか、と彼は思った。
「どうしたの? その目」
「霧がかかってるの」
「病気なの?」
「……気になるの?」
「多少はね」
 彼が口を斜めにしてそう言うと、ほんの少しの間、彼女は黙り込んだ。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「キミと仲良くなりたいから」
「仲良くなって、何をするの?」
「キミと話をしたい」
「今も話をしてるわ」
「仲良くなれば、話すことは増えるだろ?」
「回数が?」
「項目が」
「どういう意味?」
 彼女の視線は、また月へと向かう。
 真似をするように、彼は月をじっと見つめた。
「仲良くならないと、話せない事もある」
「なぜ話せないの?」
「相手の事を知らないからさ。あまり人に知られたくない事を喋ったりしたときに、その人が秘密を守ってくれるかどうか、とか……心配になるだろ?」
「なぜ知られたくない事を喋るの?」
「自分を知ってほしいから」
「なぜ知ってほしいの?」
「秘密を共有したいんじゃないかな、普通は」
「……あなたの普通?」
 再び、彼女の白黒の瞳が彼に向けられる。
 彼は月を見たまま、目を細めた。
「僕にとっての普通」
「そう……」
 納得したように、彼女は少しうつむいた。手を後ろに組み、ゆっくりと橋の向こう側へと歩き出す。短い橋の向こう側には白いサンダルが二足置いてあり、彼女は足の砂を払ってそれを履いた。
「また騙されるよ」
 彼は月をみたまま、彼女に言う。彼女はジッとサンダルを見つめたまま、つま先とかかとを合わせる。
「私、靴と仲直りすることにしたわ」
「へえ……どうして?」
「だって、足がよごれてしまうもの」
「騙されてても?」
「きっと私が本当の事を知れば平気だわ」
「キミは、靴を許せる?」
「ええ、もう許したわ」
「そう、よかったね」
「ええ、とっても」
 彼女は、そう言って笑う。月を背負ったその姿は、妙に浮世離れしていた。どこかの物語から出てきたのかもしれない、と男は思ったが、こんな人間が出てくる物語を、彼は知らなかった。
「どこに行くの?」
 彼は白い右目の女に聞く。最初に感じていた、この物語――彼女の首を絞めたい、という気持ちは、いつの間にか消えていた。
「どこに行こうかな。どこがいいと思う?」
 ジリジリ、と彼の頭の上の外灯が音を立てる。白い右目の女は、その外灯の方を向き、ぼうっとした表情のまま答えた。
「さぁ……わからない」
 彼女は少し濡れた橋の上を、ぺたぺたと歩く。頭一つほど違う男を見上げ、少し口元をほころばせた。
 彼女の視点からは、切れかかった丸い外灯が彼の頭上に光っていて、まるでそれが出来損ないの天使の輪のように見えていた。
「あなたは、どこに行きたいの?」
「そうだな……お腹が空いたよ」
「答えになってないわ」
 にこにこと笑う、彼女。先ほどまでの興味無さ気な態度とは違って、そこにはじゃれ付く子犬のような雰囲気があった。
「じゃあ、ハンバーガーでも食べに行こうか」
「ハンバーガー……何年ぶりかな。うん、行こう」
「一緒に来る?」
 男が聞く。きっとどこに行くといっても、彼女は自分に着いてくるだろう――そういう確信めいた予感を、男は感じていた。
「ううん、別々でもいい。でも行く場所は一緒だと思う」
「それじゃ、一緒に行った方がいいかも知れないね」
「どうして?」
「悪い人に、首を絞められるかもしれないよ」
 穏やかな表情で、彼は言う。ポケットの中の黒皮の手袋を握って、彼女の顔を覗き込んだ。彼女は自分の首を首から胸元までを右手で撫で、困ったように彼を見上げる。
「あなたは、悪い人?」
 白い右目の女は、不安そうに尋ねた。
「悪い人じゃないけれど、首を絞めるのは、結構好き」
 彼は目を細める。目の前の女性の首は、華奢で、柔らかそうで、陶器のように白かった。
 形のいい喉のふくらみに、彼はそっと手を伸ばす。
 白い右目の女は、それを拒まなかった。



 彼の右手の指先はゆっくりと、彼女の首を撫でた。
 顎の下を伝い――

 喉を撫で――

 鎖骨の中心の窪みから――

 左の鎖骨へ――

 左肩を登り――

 そしてついに、大きな手のひらが、華奢な首を包み込んだ。


 困ったような表情のまま、白い右目の女は、彼を見上げている。つばを飲み込むように、彼女の喉が上下した。
「私の首を絞めても、たぶん意味はないと思うわ」
「……どうして?」
「だって――」
 彼が怖いから、というわけではなさそうだった。困ったように考え込む彼女は、少しの間目を泳がせて、やがて恥ずかしそうに口を開く。
「だって、お腹が空いたって、あなたは言ったわ。私の首をしめても、たぶん、お腹はいっぱいにならないもの」
 少し力を加えれば、その首が絞まる事を、この女は解っているんだろうか──彼はそう思う。そして突然、彼女の首を絞めたい、という気持ちは、みるみるうちに萎えていった。
 今、終わらせるのは、惜しい。彼は初めてそう思う。
「そうだね……お腹はいっぱいに、ならないね」
「よかった!」
 彼女は、本当に嬉しそうに、自分の目の前で手を合わせる。
 そのままにっこりと、首に手を回されたまま、彼女は笑った。
「ほんとうによかった、私、あなたが、あなたのお腹と喧嘩してしまったと思ったの。だから、ご飯を食べる代わりにね、首をしめてやろうか、と思ったんじゃないかな、と思って」
 あろうことか、彼女は自分の首を絞めようとする相手を気遣っていた。
 衝動的に、彼は彼女を抱き寄せる。小さな頭が彼の胸板に当たり、ふわりとえも言われぬ良い匂いが、彼女の髪から香った。
 その香りを嗅いだ瞬間、ハッと彼は我に返った。だが、抱いた肩の感触があまりに華奢で、髪から漂う香りがあまりに魅力的で、彼はそのままの姿勢で三秒ほど固まっていた。
「……どうしたの? 苦しいわ」
 ふと、彼の胸元に潜り込んでいた顔を上に向け、彼女は言う。顔と顔の距離は、十センチを切っていた。
「あ、あぁ、ごめん」
 あわてて彼は手を離す。銃をつきつけられたように、彼は手を上に上げた。そんな彼を、彼女は文字通り白い目で見つめ、カタチの良い指先で乱れた黒い前髪を直した。
「もう、お腹がすいたって言って首を絞めたり、お腹と仲直りして私を抱きしめたり……よくわからないわ」
 かつて靴と喧嘩をした彼女は、彼がお腹と喧嘩をしたのだと思っている。それがおかしくて、彼はフッ、と笑った。
「私、怒っているの」
「いや──ふ、いや、ごめん」
「怒っている人に笑いながら謝るのも、よくわからないわ」
「そうだね、ごめん。お腹が空いたよ」
「もうお腹との喧嘩は終わった?」
「ああ、もう、それは。キミのお陰で仲直り出来たよ」
 そう彼が言うと、彼女はさも満足げに笑った。白い目を細め、完璧な角度に首を傾ける。長い黒髪がさらりと肩口から落ち、街灯に照らされた彼女は、彼にとって間違いなく最高の物語であった。
「そう? 私、なにかしたかしら」
「いや、お腹にね、キミを抱きしめたら許してやるって言われたんだ」
「あら、あなたのお腹はしゃべるの?」
「うん、キミを抱きしめたら、goodって言ってくれた」
「……ふふ、それなら、私のお腹も、時々喋ってるみたい」
 彼と彼女は、月の下で笑う。
 腐った水の上にかかる、汚れた橋。
 その上で出会った、彼と彼女。
 時々、首を絞めたくなる男──新谷智(あらや とも)。
 白い右目の女──八須賀つばめ(はちすか つばめ)
 そんな二人は、ハンバーガーを食べに、ネオンの光る街へ歩いた。
 相変わらずべたつくアスファルトも、周囲の店から漂うすえた匂いも、彼はもう、気にならなかった。
 目の前の白い右目の女の物語を終わらせる前に、もう少し見ていたい。そう思った。



 宙に浮かぶ大きな月に背を向けて、彼らは歩く。
 きっともう、今なら、月が落ちてきたとしても、彼は驚かないだろう。
 それよりも魅力的なストーリーが、目の前にあるから。
 彼女の目の中には、白い月が浮かんでいる。

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