彼らの日常

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- #01

- #02


#01

 智がコーヒーを淹れ、カーテンを開ける。コーヒーカップから立ち上る湯気が朝日に照らされ、儚げな朝の雰囲気が部屋を満たした。
 ベッドに寝たままだったつばめは、その朝日に顔を照らされ、目を閉じたまま眉間に皺を寄せる。ぐっと目を強く閉じて、ほっとしたように目を開けた。その右目は、白い。同じく白いシーツに包まれたまま、つばめは智を見つめていた。
「おはよう」
 つばめが言う。あの夜智が聞いたような、透き通った高い声。智はその声に振り返る。にっこりと笑ったままベッドへ歩き、つばめの横に腰を下ろした。その手にはコーヒーカップが二つあり、彼は起き上がったつばめにそれを一つ渡す。
「つばめ」
 智は寝起きのつばめに声をかける。
「なに?」
 眠たそうに、彼女は陽の光に浮かんでいる。長い髪は陽を反射していた。
「首、触って良い?」
「どうして?」
「好きなんだ、キミの、首」
「そう」
 そう言って、彼女は胸にかかっていた髪を背中に流す。顎を智の方へ上げ、白い右目と黒い左目を、同時に閉じる。
「ああ、目は、開けてくれないかな?」
「どうして?」
「好きなんだ、キミの、右目」
「そう」
 そう言って、彼女は閉じていた右目だけを開く。完璧な角度に顔を傾けて、白い右目で智を見つめた。
「その目、見えないんだっけ?」
「見えてるわ」
「景色は、見えない?」
「ええ、真っ白。もしかしたら景色は白いのかしら」
「どうなんだろう……ね」
 言いながら、智はつばめの首に右手を這わせる。親指の付け根を、顎の下に少しだけ押し付けた。そのまま、人差し指で肩から鎖骨までを撫で、そこから首の後ろに手を回す。
 つばめは恍惚とした表情で、智にされるがままになっている。開いていた右目を半分ほど閉じ、彼が手を引いた時には満足げな溜め息をついた。
「ありがとう」
 彼女は言う。
「こちらこそ……ね」
 智は笑った。彼はつばめの首を触っていた人差し指と親指を摺り合わせ、先ほどの感触を反芻していた。
 つばめの身体は、驚くほど冷たい。血圧が低いのかは彼には解らなかった。聞けば、月はとても寒い場所だという。右目に月を飼っている彼女の身体は、それで冷たいのか、と彼は思った。
「どうしたの?」
 暖かいコーヒーを少しずつ少しずつ飲むつばめは、溶けてしまわないだろうか。そんなことを智は思う。
「熱かったかな」
「何が?」
「コーヒー」
「そうね、とても熱いわ」
 彼女は鼻から息を吐く。シーツをめくり、智のとなりに座る。
「でも冷たすぎるのもダメね。お腹が痛くなるもの」
「それは、お腹と喧嘩をしてる状態?」
「いいえ、私がお腹をいじめてる状態。喧嘩といじめの違いは何かしら」
「高さかな」
「そうね」
 満足げに笑う彼女は、コーヒーカップをベッドの横にあるテーブルへ置く。コーヒーからはまだ湯気が立ち上っていた。
「アイスコーヒーとホットコーヒーの、中間の温度のコーヒーが欲しいわ」
「その場合、名前は何になるの?」
「ただのコーヒーだと思うわ。じゃないと、アイスもホットも存在しないもの」
「面白いね」
「何が?」
「キミの話が」
「どのくらい?」
「他の人と比較して、ってことで」
「そう。でも、私は私と話をしたことがないから、それがどのくらい面白いのか、わからないわ」
 もう一度、彼女はコーヒーカップを手に取る。
「面白いって何かしらね」
「時間を割きたいかどうか、かな」
「じゃあ、世の中の人は皆仕事が面白いのかしら」
「仕事は面白くないと思うよ。遊ぶ方が良い」
「遊びが仕事になる人もいるわよね」
「仕事が遊びになるよりは、いいと思うよ」
「そう」
 彼女はコーヒーを飲む。その彼女の髪を、智は撫でた。
「面白いかしら?」
「今は、これに時間を割きたい」
「そう、私はコーヒーを飲むのに忙しいわ」
「邪魔かい?」
「冷やすのに時間を割きたいとはおもうけれど、ただ待つだけじゃ面白くないわ」
「コーヒーは放っておけば冷えるから、その間他の事をすればいい」
「例えば?」
「そうだな……そろそろパンが焼けるよ」
「素敵ね」
「何が?」
「今日の朝が」
「どのくらい?」
「いままでより」
「そっか。でも、僕はキミのいつもの朝を知らないから、どのくらい素敵なのかは、わからないけど」
 言って、彼は立ち上がり、つばめの前に手を差し出した。
「なに?」
「おいで、パンを食べよう」
「あなた、パンには何をつけるの?」
「バターか、マーガリンかな」
「私はね、アプリコットのジャムをつけるのが好きよ」
「へえ、食べた事ないな」
「ふふ、少なくとも、バターやマーガリンより、素敵な味がするわ」
 彼女はそう言って、彼の手を取った。

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#02

 日差しは高く、暑かったが、その日の風は心地よかった。つばめと智は連れ立って歩き、近所の公園に来ていた。大きな池がある公園で、池の外周に沿って二色の散歩道が大きく取ってある。。  雑木林か防風林か、といった少し貧相な木立がその散歩道を囲み、その間を縫って、池の方角から涼しい風が丁度良い強さで吹いてくる。風はつばめの白いワンピースと黒い髪を揺らし、その度に彼女はうれしそうに笑った。
「ご機嫌だね」
「そうかしら? いつも通りよ」
「嬉しそうに見えるけど」
「昼間、出歩くのは久しぶりだもの」
 彼女は言いながら、陽の光を受けて輝く水面を見つめていた。彼女の右目には、白い月が浮かんでいる。
「どうして?」
「外に出してもらえなかったの。外は危ないって」
 珍しく、彼女は困った顔をする。智とつばめが初めて会ったとき──智が首に触れたとき以来だった。そんなことないのにね、と彼女は続ける。
「つばめは、何歳?」
「私は今年で二十一歳。智は?」
「僕は二十四歳」
「年男ね」
 にっこりと笑いながら、彼女は言った。そういうことはきちんと知ってるんだな、と智は思う。どうにも時代と切り離されたような彼女の言動や姿には、一般的に知られている知識の影は見えなかった。
 ふわふわと白いワンピースのスカートを揺らす彼女は、彼らのすぐそばにある池の上を歩けるのじゃないか、と思うほど軽やかで、きらきらと湖面に反射する太陽の光に、すっと溶け込んでしまうのではないかと思えるほどだった。智だけではなく、彼女とすれ違う人々は皆、右目に月を飼っている女性に目を奪われている。
 整った顔立ちと、現実離れした白いワンピース。そしてにこにこと笑いながら智の隣を歩く彼女は、それだけの力を持っていた。
「みんな君を見てる」
 智は言う。不思議そうに、長い髪を揺らしながら、つばめは口許に手を当てた。
「そう? なぜかしら」
「さぁ……なぜだろう」
 昼間に月が見えるからじゃないかな、とは言わなかった。彼女は右目の事を聞かれるのは、あまり好きじゃないように思ったからだ。また、身体的な障害を冗談に使うほど、彼は無神経な人間ではない。
「あなたも、私を見てる?」
「ああ」
「なぜ?」
「なんとなく、心配で」
「あら。何が心配なのかしら」
 にっと歯を出して、つばめは笑う。まるで彼の心を見透かしたようだった。
「君が誰かに勝手についていったりしないかなって」
 と、彼は本心を言う。彼女が智に着いていったように、ふらふらと誰かに着いていってしまわないだろうか、と考えていた。
 今、彼女を手放したくはない。自分を高尚な人間と考えるわけではないが、そこらの下賎な人間どもに、彼女を触らせたくはない――彼はそう考えていた。それが彼女に関する独占欲の表れなのか、彼女に依存している故の考えなのか、それともその両方なのか、はたまたまったく別の考えなのか――彼は判らなかった。
「ひどいわ。私子どもじゃないのよ?」
 智の言葉を聞いて、つばめはむくれる。腰に手を当て、鼻から息を吐く。
「知らない人にはついていかないわ」
 大真面目にそう言う彼女をみて、智は吹き出した。それが気に食わないように、つばめはもう、と唇を尖らせる。
「最初、僕に着いてきた時はどうなのさ」
「話してお互いが解れば、良いと思うのだけれど」
「あれで、僕が解った?」
「ええ」
 自慢げに、彼女は胸を張る。モノクロの目で彼を見ると、くるりと踵を返した。
「解るの、少し話せば。その人がどんな考えをしていて、何を思って私に話しかけているのか。いくつか質問をしたでしょう? それにあなたはすべて答えたわ。それで私はあなたが解ったの」
「どう、解ったの?」
 智がなんとなく聞く。すると、つばめはもう一度踵を返し、彼に向き直った。首を完璧な角度に傾け、右目を閉じ、残った黒い左目で彼を覗くように見る。
「あなたはね、自由な外見を持ってるんじゃないかと思ったの。相手によって姿を変えて、鳥にも、動物にも……そうね、魚にもなれるかもしれないし、爬虫類とか両生類も大丈夫かもしれないわ。もちろん、人間にも」
 言いながら、つばめは花壇の縁を、綱渡りでもするかのように歩いた。
「……」
 智は静かに、つばめを眺めている。その視線は彼女の目から、首へと落ちた。 「私に声をかけたときは、きっと狼や蛇だったと思うわ」
 彼はその時の事を思い出す。そのとき、彼は保存したいストーリーを探して徘徊していた。
「でも、私が靴の話をした後は、フクロウみたいだった。珍しい物を見るみたいに、じっとこっちを見てた」
「じゃあ、今はどう?」
「今は、そうね、なにかしら」
 そう言いながら、つばめは手を広げる。名の通り、彼女はそのままふわりと花壇の縁から飛んだ。地面を労るようにそっと着地して、空気を孕んだスカートが膨らむ。バレエのステップを踏むように、くるりと彼女は廻ると、そのまま智の手を取った。つばめの手は冷たく、智の手はそれよりも少し暖かかった。
「あなたは──多分、今は……」
「いや、止めよう」
 ふと、智は笑う。彼は彼女の手をそっと握り直した。
「多分、僕の想像している生き物だろうから」
 すると、つばめは心からほっとしたように息を吐き、
「本当に貴方は頭がいいわ」
 と一言言うと、智の手をそっとほどいて、湖のすぐそばに歩み寄った。
「良い風ね」
「そうだね」
 風は心地よい速度で、彼らの身体を撫でていく。いたずらにつばめの髪を揺らし、智の服の内側を流れた風に、彼らは目を細めた。
「ねえ、何か冷たいものが食べたいわ」
「少し歩けば、ソフトクリームを売ってる店があるよ」
「じゃあ、もう少し歩きましょう」
「わかった」
 そうして、つばめと智は歩き出す。晴れた遊歩道の熱気に、少しつばめの頬が染まる。
 少し汗ばんだ髪をかき上げ、智はゆっくりと彼女の後を追った。

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