じゃがいも

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#01

 あの家がふたたび近所の人間の噂に上るようになったのは、ちょうど一週間ほど前からだった。
 家主である吉住清五郎は国立大の植物学の教授で、鋭い印象を受ける長身の男だった。大学では妙な研究に没頭していると専らの噂で、例えば食べることのできない土くれを食べれるように改良するとか、毒を含んだ食べ物の毒を食べても平気になる薬だとか、そういった「非食物の食物化」をテーマにしている――と、うわさ好きで有名な隣の櫛田さんが言っていた。
 確かに、どう見ても白い炭にしか見えない『何か』を、
「これは食べるとメロンの味がするんだ。おいしいよ、おいしいよ?」
 と言いながらポリポリと食べていたり、公園で子供たちに
「甘いよ。とっても甘いお菓子だよ、どうだい、舐めてみるかい?」
 と言いつつ『小瓶に入った刺激臭のする液体』を配っていたりしていた。もちろんその時ばかりは警察に通報されたが、通報された警官も彼を一目見るなり露骨に嫌な顔をして、文句を言って立ち去って行っただけだった。
「またあんたか、困るんだよねぇ、こういうの」
 どうやら、吉住清五郎はよく通報されているようだった。

 そして三か月前のある晩、吉住邸から奇声が上がった。三軒隣の私の家にも届くような大絶叫であったが、それはまぎれもなく、公園であの液体を配っていた吉住の声だった。
 さすがに奇人で通っている吉住清五郎だったが、この奇声は尋常ではない――と、皆思ったのだろう。何が起きたのか確かめるべく、私や櫛田さんを含む近所の人間が吉住の家の前へと集まった。
「何が起きたのかね」
「いいえ、わかりません……」
「あなた、なんだか私怖いわ」
「大丈夫、きっと何かの実験が失敗したのだろう」
 と、各々好き勝手なことを言いながら、一向に動く気配がない。業を煮やした私は、吉住の家のインターフォンを鳴らした。だが、数回鳴らしても反応はない。
「もしや、死んでいるのでは……?」
 誰かがつぶやいた。一斉に皆の顔から血の気が引き、これはいかん、手遅れになってはまずい、と、私たちは吉住邸のドアを強くたたき始めた。吉住サァーン……大丈夫ですかァー……と力の限り叫びながらドアをたたく。
 あの時何故か私の心の内にあったのは、独り身である吉住が死んだ場合、その葬儀は誰がやるのか、ということだった。この屋敷に住んでいる、ステレオタイプな奇人変人である吉住清五郎の、その葬儀を。
 そして五分ほど経ったその時に、ドアがチャッ、と音をたてて開いた。
「なんですか……あなたがた……」
 ドアの隙間から見えるのは、青白い吉住の顔。背の高い彼は、私たちを見下ろすように、ジィッ……とこちらを見ている。落ちくぼんだ眼窩からは、いつも感じられるような鋭さはなく、何か深く抜け出せない所に踏み込んだような、恐ろしい何かを孕んでいた。
 そう感じたのは私だけではないようだった。皆一様に、その恐ろしい何かに射すくめられたように、吉住を凝視している。
「寄ってたかって……また、私をいじめにきたのか……?」
 心底いやなものを見た、と言わんばかりに、吉住はため息を添えて言う。いつもの狂気じみたやかましい声ではなく、低く、腹の底からあふれ出るような声であった。
「な、何だと、全く、貴様という奴は!」
「すごい叫び声が聞こえたので、大丈夫かと思って」
「そうよ、ねぇ? こんな夜中に……」
 また各々に、好き勝手なことを我々は言った。すると吉住は、
「ふふ、ふ、なに、新しい実験がね……そう、人類の認識を根底から覆す様な、そんな……素晴らしい、とても素晴らしい実験がね、成功したんだよ……ふ、ふふふ……」
 先ほどと同じく、吉住の腹の底から、今度は笑みがこぼれてきた。だが、やはりその笑みは邪悪で、底の見えないほどの深い場所から、ぼこぼこと溢れ出る粘質じみた笑みであった。思わず、私は言う。
「あ、あんたは、どこかおかしいんじゃないか!?」
「おかしい? なにがおかしいというのだ……」
 私の言葉に、吉住の目が一瞬怪しく輝く。今まで死んでいた目が、私への怒りで燃え上がっていた。
「何も危機感すら持たず、喰える物が目の前にゴロゴロと転がっていると勘違いしている貴様らに……貴様らに、私の研究の何が解る。──今に見ていろ、今に見ていろよ、私が変えてやるからな、全て、私の──」
 吉住邸のドアは彼の溢れ出る不穏な言葉を塞ぐように、やがてカチャリと音を立てて閉まった。私はもちろんの事、その場に居た誰もが安堵したに違いない。特にあの怨嗟の瞳を向けられた私は、悪魔に心臓を鷲掴みにされていたようにすら感じた。その拘束が緩んだ今、途端に心拍数が跳ね上がっているのが解る。
「な、なんだ、実験などと……成功する度に絶叫させられては、こちらの身が持ちませんな」
 私は怖さを紛らわせる為に、精一杯の強がりを言った。言いながら、手の震えているのを隠す。恐ろしい何かは、まだ私の心臓に手の届く位置に居るように感じられたからだ。
「そ、そうですよ、全く……何を研究してるか知らないが、はた迷惑だ……」
「はは、でも、何も無くて良かったじゃないですか」
「そうね、変な実験動物でも逃げたのかと思いましたわ……」
「ははは……そんな馬鹿な……」
 乾いた笑いを浮かべながら、精一杯の軽口を叩くその場に居た人間も、どうやら心臓に狙いを定められていると感じているようだった。

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#02

  それからパッタリと、吉住は外へと出なくなった。大学にも顔を出していないようで、向いに住んでいる大学生の洋平君からは、吉住は解雇されたという話を聞いた。
 買い物にも出ず、彼には知り合いも居ないため、あの恐ろしい出来事のあった吉住邸のドアは、ほとんど開く事が無くなった。時折溜まった新聞を家の中に持って帰る、以前にも増して恐ろしく奇妙になった顔貌の吉住の姿が目撃される程度であった。
 そして一ヶ月ほど経った後、吉住はついに新聞すら取りに行く事を止め、一切外へと出なくなった。
 死んでいるのか、生きているのかすら解らない。吉住が何をしているのかも、全く解らない状況が続いた。噂好きの櫛田さんの話によると、夜な夜な吉住の家からガラスを砕く様な音や、木をへし折る様な音がしてくるという。だが時間が経つにつれて、そんな噂すら聞かなくなっていった。


 そして、つい一週間ほど前である。
 この街の名士である、弓削さんの一人息子である光秀君が忽然と姿を消し、俗にいう神隠しに遭ったという噂を櫛田さんに聞いた。なんでも、吉住の家の近くで遊んでいた光秀君を見た、という郵便屋の栗田さんの証言が最後の目撃情報らしい。
 当然、弓削さんは吉住を真っ先に疑った。だが、まだ吉住に誘拐されたと決まった訳ではない、と警察に説得され、全てを警察に任せる事を承諾したらしい。

 だが、その二日後。昨日吉住邸を尋ねた警官が、今日の朝になっても戻らないと言う話を、聞き込みにきた別の警官──熊谷さんから聞いた。なんと、警官ですら神隠しに遭っていたのだ。
 だが戻らなかった警官はとても大柄な人物らしく、腕っ節の強い男だったようで、もし吉住がこの神隠しを首謀していたとしたならば、ある程度の武装をしている可能性がある、充分注意して下さい、と熊谷さんは言った。

 そして次の日、私は警察のサイレンで目を覚ました。隣の家に、パトカーが止まっている。私はあわてて飛び起きると、櫛田さんの家の前へ走った。玄関先には泣きじゃくる櫛田さんと警官がおり、どうやら櫛田さんの家で何かが起きた事だけは解った。神隠し、という単語が聞こえた事は、忘れたかった。


   吉住を見たのは、昨日で二ヶ月ぶりであった。
 彼は前よりずいぶん血色が良く、あの晩見た様な恐ろしい雰囲気は消えていた。ちょうど溜まりに溜まった新聞を家の中に引き入れるところだった様で、通勤する途中であった私は、つい彼と目が合ってしまったのだ。
「ああ! このあいだは、すみません!」
 私と目が合うなり、吉住は笑って答える。歯を見せてニッカリと笑う彼のその顔は、妙に清々しげで……気味が悪かった。
「はぁ、どうも……」
「いやあ、あの晩は少し気が立ってまして……申し訳ない事をしました」
 すまなさそうに笑う彼を見て、もしかして、この人物はそう悪い人間ではないのか? と私は思ってしまった。正直なところを話せば、私はこの吉住という変人に興味を持っていたのだ。
 奇人変人の見本とまで思っていた人間が、今とてもさわやかに朝日に微笑んでいる。彼の変わった理由は何なのか……私は、それがとても気になった。
「あのう……よろしいですか?」
「ん? なんでもどうぞ?」
 突然の質問にも、気さくに答える。この男は、本当に吉住なのだろうか……?
「ずいぶん、顔色が良くなられましたね……何かご病気でも?」
「はは、いやぁ単純に栄養失調でして。ははは、あの晩ですね、私、すばらしい実験に成功しまして。いや! あれは素晴らしいってものではありませんよ、ええ」
「ほう……それは、それは──」
「今まではですね、私は食べ物側にばかり目をやってまして、食べる側、即ち私たちの事に関しては全くの無頓着であったわけです。視点を広げてみると、食べる、食べられない、というのは私どもの主観である訳でして──そう、ですから、私たちが食べられるもの、即ち消化が可能であるものの枠を広げてしまえば良いのでは、と私は考えた訳です。そうなると──」
 一気に彼の話は現実離れし出した。余裕を持って通勤するのが常の私でも、この話を最後まで聞いていたら、恐らく遅刻してしまうだろう。
「あの、あの……すみません、手短にお願いします」
「お! おお、これは申し訳ない。要するにですな、私の体を使って、非食物を食物として消化出来るようにしたわけですよ」
「……!」
 なんということだ。私は絶句し、同時に体が硬直した。真っ直ぐ彼を見る事が出来ずに、私は彼の家の窓へと目をやる。
 家具という家具が、ない。
 机、椅子はもちろん、上から吊るされてあったであろう電球も、壁紙も、床板も一部消えていた。何も部屋には無く、その部屋から他の部屋に繋がるであろうドアさえ消えていた。

 そういえば、櫛田さんは言っていたはずだ。

 ──夜な夜な吉住の家からガラスを砕く様な音や、木をへし折る様な音がしてくる──。

「でもですなぁ、やはり非食物は非食物、食べる事が出来、消化出来ても、やはりそれは味気ない物でしたなぁ……あ、そうそう、実験は私の味覚にも影響をした様で、食べるもの食べるもの全てジャガイモの味がするのです。ただ、ジャガイモと言っても個体差はありますよ? でもね、肉です。焼いた肉はね、格別なんですよ……こう、ふかして、ほくほくになった、あのジャガイモに似て……」

 住吉は、恍惚とした表情をしていた。思い出すように口をもぐもぐと動かし、私を見る。

「ふふ、こうなると、世の中のすべてがジャガイモで出来ているように見えてくるんです、そう、私自身もジャガイモなんじゃないか、って思った事もありましたね……そう! まさにその思いつきが発端だった! 思いつきという物はいつでも素晴らしい結果をもたらしてくれる。私自身がじゃがいもだったら、私はどんな味がするんだろう……」

 口許に持って行かれた、彼の右手。その手は、小指と薬指がすっぱりと無くなっていた。
 狂気に血走った目が、私を見ている。

「そして、みなさんは、どんな味がするのだろう……ってね」

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