転機

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#01

「おかえり、智」
 智が家に帰ると、つばめが玄関を開けて迎えてくれた。彼女の頭をそっと撫でて、
「ただいま、つばめ」
 と彼は言う。モノクロの目を細めて、つばめは笑った。
「結局昨日は何を食べたの?」
「ふふ、凄く楽しかった」
 つばめは楽しそうに口許に手を当てた。食事をしたであろうリビングをふと振り返って、彼女はもう一度優しく笑う。その仕草と返事は、智にとって予期しないものだった。
「珍しいね、君がそういう──なんて言うか、答えになってない言葉を言うの」
「そうね……でも、本当に今までで一番素敵な一日だったわ」
「へぇ……昨日の事、良かったら後で教えてよ」
「ええ、何から話そうかしら──」
「ああ、ちょっと待って、着替えた後でいいかな?」
 昨日のままの服が少し気持ち悪かった。襟をつまんでみせると、つばめはにっこりと笑ってリビングへと向かう。その後ろ姿は、智の見知った隙のない女性の姿ではなく、例えるなら遊びから帰ってきた子供の様な雰囲気を纏っていた。楽しかった出来事を、話したくてたまらないような──そんな後ろ姿だった。
 服を着替え、リビングの扉を開くと、ゆったりとした風が彼を出迎えた。
「ね、素敵でしょう?」
 ローテーブルの脇に座って窓の方向を見ながら、つばめは言う。正面と左側の窓が開かれ、ふわふわと白いカーテンが揺れていた。午後の陽気は緩いスピードで動く空気に乗って、彼の体を柔らかく包み込む。
「なんだか、眠くなりそうだね」
「つまらない?」
「ん……つまらなくはないよ、つばめと話ができればね」
 そう言いながら、彼はキッチンに向かい、コーヒーメーカから自分のカップにコーヒーを注いだ。黒く流れる液体を見ながら、素敵という単語をつばめが自ら使う事に少し違和感を覚える。
「それで、昨日はどんな日だったの?」
 ゆっくりとつばめの正面に座りながら、彼は聞いた。ほんの少しの間つばめは智を見つめると、ふふ、と目を細めて笑い、両手でコーヒーカップを包み込むように持つと、体を前に乗り出した。
「スタートは最悪だったわ。起きたら一人だったから、ちょっと昔の事を思い出したりしたの」
「昔の事っていうと、どのくらい?」
「十年くらい前よ──今思えば、昨日は混合気が薄かったのかしら」
「混合気?」
「ううん、こちらの話。それでね、起きてリビングに行って、今日みたいに窓を開けて、智が作ってくれたオムレツを食べたの」
「美味しかった?」
「ええ。それからお皿を洗って、智のパソコンを少し借りたわ」
 ふと彼女の横を見ると、白いノートパソコンがある。彼が彼女に自由に使っても良いと言ったものだった。
「それから?」
「そうね、それから少し調べものとかをして、窓のそばで三十分くらい眠ったかしら。起きてからコーヒーを自分で淹れて、パソコンを触って──」
「うん」
 頷きながら、智はつばめの話に何かしらの違和感を感じた。何がおかしいとは言えないが、何かがおかしい。彼女の話には、何かが足りない気がする。
「そう、それから夜になって、おなかがすいたんだけれど、ご飯をどうすればいいか解らなくて……」
「え?」
 智は驚いた。
 彼には昨日の昼前、彼女に夕飯はデリバリーで済ませると良い、と電話で告げた記憶がある。
 電話口で子どものように喜んでいた彼女の声は記憶に新しく、忘れる様な時間も経ってはいない。思わず彼は携帯電話の履歴を見た。キーを数回押して履歴を確かめると、確かに彼は自宅に電話をかけている。彼は頭の中が一瞬真っ白になった。
「電話?」
 彼が突然携帯電話を開いたため、着信があったと思っているのだろう。彼女はは少し心配そうに、智の顔を覗き込んでいる。
「いや……気のせいだった」
 彼はそう言って携帯電話を閉じる。
「そういうの、幻想振動症候群って言うらしいわよ――それでね、なんとなく見てたホームページに宅配ピザの広告があって……」
 無邪気に昨日の思い出を語るつばめが、智には嘘をついているようには見えなかった。
 それからつばめは初めてデリバリーのピザを頼み、智から貰っていたお金を使って支払いをしたこと、それが何かしら少し悪い事──例えば買い食いをしているような気がしてとてもドキドキしたこと、小さいサイズを頼んだのに食べ切れなくて、それを今日の朝食べた事を話すと、ふふ、ともう一度満足そうに笑った。
「話してみると、なんて事は無い一日だったけれど……そうね、バランスが良かったのかもしれないわ」
「本当にそれが理由?」
 智にはそうは思えなかった。左右の天秤に乗せるものを語らずに、彼女がバランスがよかった、などというハズが無い、と彼は考えていた。
 彼女は浮ついている──そう彼は思う。もっと他の理由があるはずだ……そうでなければ、つまらない。
「どういう意味?」
「言葉通りだよ」
 ふむ、と鼻から息を吐き、つばめは腕を組んだ。左手を口許に当て、ジッとテーブルの上を見つめている。彼女はそのまま人差し指の腹で、下唇を撫でながらボンヤリとしていたが、数秒ののちモノクロの視線だけを智の方向へ向けた。
「なぜかしら」
「何が?」
 彼女は、智と初めてあった時──首を触られた時の様な、困った顔をしている。
「どうして智はこんな答えを欲しがってるのかと思って」
 そう言って、首をいつものように完璧な角度に傾けた。
「え?」
「私が昨日楽しかったのは、今日あなたに昨日の話をすることができるから──」
 智の手に冷たいものが走った。ふと、彼はつばめを見る。彼女は左目を閉じ、右目だけで智を見ていた。
「どうして、そう思ったの?」
 出来る限り平静を装って、彼はつばめに言った。
「あなた、今冷静じゃないもの。私の感情にあなたが全部関わっていると思わないでね」
 言葉の辛辣さとは裏腹に、彼女の声は優しく、子供に言い聞かせる様な調子だった。その彼女の目は、昨日の余韻からかとても楽しそうに細められていて、白い三日月がそこにあった。
「私が昨日楽しかったのは、本当に心から楽しかったからよ。理由を付けるのも無粋なくらいに──それじゃだめかしら?」
「……」
「ごめんなさい、でもね、昨日智が一緒に居て、一緒にお話ができたら、とも思ったのよ? でも、それだときっと、いつも通りの一日になったと思うの」
 にこにこと笑い続けるつばめをジッと、智は見続けている。その両手は膝の間で指を合わせ、円を作っていた。
「昨日はきっと、私が一人で居た事で素敵な一日になったのよ」
 智の手がゆっくりと閉じる。何かを絞り込むように。何かを祈るように握られた両手の間に隙間は無く、それぞれの指は手の甲にギュッと押し当てられていた。彼の視線は、その手に注がれている。
「それで……どう素敵だったの?」
 彼は言う。
「説明が必要な話だったかしら」
 にこにこと笑いながら、彼女は言う。そして、 「何を苛ついてるの? 首でも締めたくなった?」
 と続けた。そして彼女はソファの脇から一つの手帳を取り出す。そのまま、いとおしそうにその手帳を口許へと寄せた。
 瞬間、智の顔から血の気が引く。その手帳は智が終わらせた物語を記したもの──言わば彼の犯した犯罪の証拠であった。
「本当に……素敵な日だったわ」
 つばめは、にこにこと笑っている。
「つばめ」
 智の手が、開いた。

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