智の手帳

このページはbookreader.jsを使用して作られています。

- # 三月十七日

- # 四月二十日

- # 五月九日

- # 七月二日


# 三月十七日


 今日は江守の引っ越しの手伝いをしに、清畠までレンタカーで来ていた。江守は古い親友だが、女の事になると途端に話の程度が低くなる。今日も散々自分が抱いた女の話をされた。気が狂いそうだった。
 気分が悪くなって、僕は清畠から凊野まで出向いた。もちろん女の首を絞める為だった。
 しばらく歩いていると、凊野の三丁目あたりのホストクラブからスーツ姿の女性を見つけた。ぼさぼさの金髪の男に見送られたその女性は、ストレートの黒髪に赤い縁の眼鏡、パンツスーツ──と、ステレオタイプのキャリアウーマンという出で立ちだった。
 この女性がこれ以上あんな男どもに尽くして行くのがみていられなかった。何がいいんだ、あんな男ども。
 僕はその女性の後ろをしばらく着けて行き、電車に乗り、彼女の自宅だろうと思われる場所まで来ると、暗がりに引きずり込んで首を絞めた。
 不思議とさほど抵抗はなく、ものの十数秒で彼女の意識は途切れた。薄く街灯に照らされた彼女の髪は青く光っているように見えて、とても綺麗だった。彼女の終わりは美しいものだった。
 残念だったのは、赤い眼鏡を僕が踏んで割ってしまった事。記念に持ち帰ろうと思っていたのに残念だった。
 鞄の中から手帳が飛び出していたので、帰りしなそれを読んで行くと、どうやら彼女を今日終わらせて正解だったことが判った。
 返済日、と書かれた丸印が手帳の決められた日にちの部分にあり、そこへ書かれていた額は僅かずつではあるが増えているようだった。
 もう彼女はあんな男にも、借金にも苦しめられることは無い。
 彼女の物語は今日終わった。
 今終わらせれば、これ以上汚れる事は無く、美しいままに彼女は埋葬される。
 すばらしいことだ。

はじめに戻る


# 四月二十日


 最悪だ。外でノートパソコンを開いていたら、子供に刺していたフラッシュメモリを引っこ抜かれた。
 これだから子供は嫌いなんだ。ちょっと面白そうだからと言って、考え無しに行動する。甘やかされてばかりいる子供は特にこの傾向が強い。そしてそれが阻害されると泣きわめいて、自分の行動を強制的に正しいと周囲に認識させるんだ。
 泣いたら勝てるってことを知ってる。
 だから泣けないように、その子の後を着けて首を絞めた。もう充分いろんな人に迷惑をかけただろ、そう言いながら。
 ごめんなさい、ごめんなさい、とその子供は命乞いをしたが、僕は別に謝ってほしい訳じゃない。君がこれ以上他の人生を汚さないように、それから僕の邪魔が絶対に出来ないようにしたいだけだ。
 手が汚れてたら洗うのと一緒さ。そのまま何かを触れば汚れが他に着いてしまう。だからまずは汚れを落とさないと。
 あの子供は言わば僕の手についた汚れだ。終わらせないと、ずっと僕の手は汚れたままになってしまう。綺麗なものを触っても、あいつがいたとしたら何もかも汚れてしまうから。
 これからはもう安心だ。汚れる事はない。

はじめに戻る


# 五月九日


 気丈そうな老婆が、僕の気まぐれに入った喫茶店の店員を叱責していた。話を遠巻きに聞いてみると、くだらない理由──自分の頼んだコーヒーだかカプチーノだかが、なかなか出てこなかった事に腹を立てているようだった。
 商品が早く出ようと出まいと、こういった場所に来るのならある程度の時間的余裕はあるはずで、あの老婆がなぜ怒っているのかが僕は判らなかった。そして気に入らなかった。何よりも僕が自由に使える時間のたったひとときでも、あの老婆の耳障りな金切り声に犯された気がしたからだ。
 耳栓をすれば良かったのかもしれないが、あいにく僕は耳栓を常備していないし、逆に僕が耳栓を常備していたとしても、その耳栓をどこからか引っ張り出し、耳に入れるその時までは、あのカンに障り神経を逆撫でする様な汚らわしい声に、少なからず鼓膜を振動させられ、内耳骨を振動させられ、僕の脳に何かしらの刺激がインプットされるわけだ。それは何よりも許し難いことだったし、これから先あの声が僕の耳に入らない保証は無い。
 そう思うと我慢がならなかった。きっとあの女は家でもああいう金切り声を発して誰かの脳に不快なシワを一本、また一本と増やしているに違いない。そのシワを刻まれた人間はそこから癌に犯された様な頭痛を感じて、四六時中あの金切り声を脳の中に反響させているのだろう。
 だが幸い、記憶は時間とともに薄れる。それなら、これ以上あの騒音の発生源を放っておく手は無いだろう。僕はそう考えて、あの老婆の首を絞めた。
 終わらせるにふさわしい、美しい物語ではなかったが、僕が終わらせたい物語をもし汚したら、と考えると、僕は我慢がならなかった。
 だが、喉を潰すようにその老婆の首を絞めると、最後に笛の音の様な澄んだ音が口から漏れた。それはとても綺麗な音に聞こえて、僕は何度もその首を緩めては締め、緩めては締め、綺麗な音を繰り返し楽しんだ。
 ああ、彼女は今僕が終わらせて正解だったんだ。あんな耳障りな金切り声が、こんなにも美しい声に変わるなんて、彼女も思ってはみなかっただろう。
 証拠に、彼女はとても驚いたような表情になっていた。
 美しく終わった彼女は素晴らしい。湿気った花火でさえ、最終的に火がつけば、それなりに美しく見える。そんな風な終わり方だった。

はじめに戻る


# 七月二日


 今日は運命の日だった。
 彼女にであったのは運命としか言いようが無い。すばらしい物語があった。彼女は、片目が白い。白内障のようだったけれど、それがとても綺麗に見えて、白い月のようだった。あとは、言葉。説明の仕様がないけれど、彼女はとにかく特別だった。
 不思議な言葉の運びをする女性で、名前は八須賀ツバメ、と言っていた。僕の手の中で終わらせる物語としては、今までの中で、いや、これから先もこんなに素晴らしい物語に合う事は稀だろう。終わらせるのが惜しかったが、ひとしきり話をした後に、僕の家に連れてきてから首を絞めた。
 彼女は僕の手にその細い指を重ねてきて、素敵、と一言言うと、そのまま僕を受け入れた。
 静かに、静かに彼女の首は締まり、一度だけ苦しそうに咳をしてから、彼女は終わった。
 ああ、こんなにも美しくて、綺麗な物語があろうか。
 僕は興奮している。あんなに真っ白で、美しい物語を、僕はこれから先に見つける事ができるだろうか?

はじめに戻る